なぜわたしをお見捨てになったのですか

マタイ福音書27章45~56

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。・・・わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)

これは、詩編22篇の冒頭の言葉です。
神の名を呼んで、なぜわたしをお見捨てになるのか、と助けを求める叫びです。

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詩編22篇の結びの言葉に注目して、
助けを求める叫びに必ず神は応えてくださる、と神を讃えながら主イエスは天に召された、
という解釈があります。

しかし、主イエスはただの人として、十字架で死んでくださったのです。
決定的な瞬間に神が自分を見離してしまうのではないか、という恐怖に打ちのめされながら、息を引き取られた。
神に捨てられる恐ろしさを味わい尽くされた。
その主イエスの姿を、しっかり見上げるべきなのです。

「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け・・・」(27:51)

これは、現実に起こった出来事ではなく、黙示文学的な表現です。
主イエスの死と復活によって、世界が一新される、と語っているのです。
神殿の至聖所に懸かっている、聖なるものと俗なるものを分ける「垂れ幕」が、
主イエスの十字架によって、今や不要となった。
すべての人が、神に近づくことができる。
新しい救いの時が始まった、というのです。

「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」(27:52)

これは、紀元前2世紀から紀元2世紀にかけて流行した、黙示文学の表現と重なります。

「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。」(ダニエル書12:2)

終わりの日にはこういうことが起こるという黙示文学の表現を借りて、
世界がまったく新しくなった、
神による救いがまったく新しい段階に入った、
と語っているのです。

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「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、・・・『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(27:54)

これも現実に起こったことではなく、十字架の出来事によって何が起こるかを、象徴的に語っています。
十字架は、すべての人を救いに招き入れる、救いの出来事である。
主イエスを十字架に架けた張本人である兵士たちや指揮官でさえ、救いに入れられる日が来る、と福音書は預言的に語っています。

十字架の刑を執行した人たちが救いに入れられるなど、わたしたちには考えられないことです。
しかし、神の救いは、わたしたちの思いをはるかに超えています。
主イエスの十字架を見上げるとき、わたしたちは思い込みと偏見から、自由にされるのです。
(2020年8月9日)

 

 
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