まことの命を得る

マタイ福音書16章24~28

 

 

十字架刑は、ローマへの反逆に対する、この上なく残忍な処刑方法です。
あえて致命傷を与えず、何日も苦しんだ末に内臓が圧迫されて呼吸困難になり、ついに絶命する。

さらに残忍なことに、鞭打ちを受けるのです。
鞭の先に金具が付いていて、鞭で打たれると骨が砕け、背中の肉が飛び散る。

しかも丸裸にされ、町の外にある処刑場まで十字架を背負って歩く。
十字架刑には、無視され、嘲られ、捨てられ、このうえない屈辱を受けることが含まれているのです。

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「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16:25)

「命」プシュケーは、ヘブライ語のネフェシュにあたるギリシア語です。
ネフェシュの元々の意味は、「喉(のど)」です。
喉で呼吸することから、命、神から与えられている命の力、魂、生きる者、人間自身という意味で使われます。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(16:26)

まことの神に背を向けて、富や権力を手に入れ、優雅な暮らしを楽しもうとして、貧しい人々を踏みにじる人々を、預言者はきびしく非難しました。

今、世界中で自国第一主義を掲げる指導者が次々と現れています。
今の暮らしを失いたくないという恐怖心が、他の人々を圧迫してもやむを得ないという考えに駆り立てていると言われます。

今の社会は豊かに見えますが、病気になっり歳をとったら、生きていけなくなるという不安を抱えている人が、大勢います。
そのことを自分のこととして痛みに覚え、何かできることはないかと考えることが必要なのです。

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「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16:24)

わたしに従おうとするとき、多くの人から非難されるだろう。
しかし、恐れるな。
わたしに従うとき、まことの命、永遠の命、まことの生きる喜びを、あなたは手にすることができる、と約束してくださっているのです。
(2019年7月28日)

 

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