整えられた空き家

マタイ福音書12章43~45

 

先日、ベトナムから来ている技能実習生のお話しを聞く機会がありました。
ベトナムからの場合、送り出し機関で研修を受け推薦状を書いてもらうために、100万円ほどの借金を背負う。
契約書には、契約期間を全うしなかった場合、違約金500万円を支払うことが明記されている。
日本に来てみると技能が身につくような仕事ではなくて、雑役とか危険な仕事をさせられる。
そのうえ、パワハラやいじめの標的にされる。
恋に落ちることがあるが、妊娠すると中絶を迫られる。
帰国して出産したいが、莫大な借金を背負うことになる。
やむなく中絶した女性は、罪の意識に苦しむのです。
契約書は法的に整っているが、人権蹂躙がまかり通っているのです。
そんな境遇で働いている人が、今、日本に何十万人もおられるのです。

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良きサマリア人のたとえで、律法の専門家が「わたしの隣人とはだれですか。」(ルカ10:29)と尋ねます。

この問いの背後には、外国人やよそ者には親切にしなくても良いという考えが隠されています。
日本人は、身内には優しいけれど、よそ者には冷たいと言われます。
よそ者には親切にする必要などないと考えるのです。
主イエスは、サマリアの人が傷ついた旅人を助けた話を通して、自分たちの仲間かどうか線引きする愚かさを、教えてくださったのです。

「掃除をして、整えられていた」(12:44)

という言葉は、もちろん宗教的な意味で語られています。
律法学者やファリサイ派の人々は、細かな点まで整え、理論武装して、律法を守っていました。
礼拝や犠牲、生活規範などは「整えられて」いた。

しかし、そこに肝心の神様がいないのです。

だから悪霊が

「自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。」(12:45)

手に負えないほどひどい悪霊が入り込んで、前よりずっと悪い状態になるというのです。

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この言葉を聞くとき、美しく形を整えようとすること自身に問題が隠されていることに気づきます。
線引きをして、限られた範囲の中でだけ形を全うする。
外のことは知らない、それはわたしの責任ではないと言って済まそうとするわたしたちに、主イエスが警告しておられるのです。

ルールに従って物事を進めていくことが、少数者を切り捨て、排除することにつながっていないか。
わたしたちを内と外に分断している壁を、どう乗り越えていくか。

「誰が隣り人か」などと線引きをしてはならない。
神の救いから、誰一人もれることはない。
そう語ってくださった十字架の主を見上げて、歩んでいきましょう。
(2019年3月10日)

 

 
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