マタイ福音書10章34~42
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(10:34)
「人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに」(10:35)
敵対させる。
ヘブライ的な強調表現です。
「家族と戦ってでも、わたしに従え」、と促しているのではありません。
「わたしに従うことの大切さと喜びを、あなたは見出しているか」、という問いかけです。
宝が畑に隠されていることを知った者のように、高価な真珠を見つけた商人のように、
「持ち物をすっかり売り払って」(13:44)
宝を手に入れたいと願うか、という問いなのです。
「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし」(詩編85:11)
「神の平和」は、「神の義、慈しみとまこと」によって裏付けられたものです。
正義を欠いたままで、ただ争いがない状態は、「偽りの平和」なのです。
日本では、「和の精神」が尊ばれます。
しかし、争いを避ける姿勢は、苦しんでいる人にさらに我慢を強いることがあります。
蔭で苦しんでいる人はいないか、心を配ることが必要なのです。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」(10:39)
ここで「命」はギリシア語でプシュケー、ヘブライ語のネヘシュに通じる言葉です。
ネヘシュは、「喉、気管」を意味することから、「息、呼吸」の意味します。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息(ニシュマット・ハイーム)を吹き入れられた。
人はこうして生きる者(ネフェシュ・ハヤー)となった。」(創世記2:7)
「息吹(ルアッハ)を取り上げられれば・・・息絶え/元の塵に返る。」(詩編104:29)
神の命の息が取り上げられると、命は終わる。
つまり、神との関係が絶える時、命を失う。
たとえ体は生きていても、死んだも同然である。
そういう考え方が、根底にあるのです。
「わたしのために命を失う」とは、直接的には「殉教の死」を意味します。
しかし、
「この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は・・・」(10:42)
とのつながりから考えれば、
周りにいる最も小さい者のために、心を配り、助ける、
その時、あなたはまことの命を得る、
神との本当の関係に入る、というのです。
(2019年1月13日)