マタイ福音書10章26~33
「人々を恐れてはならない。」(10:26)
世の人を恐れて、なすべき務めを果たさないなどということがあってはならない。
「あなたを迫害しようとする世の権力を恐れてはならない」、「人を恐れず、ただ神のみを畏れよ」ということです。
わたしたちは、何かを失うのではないかと、恐れます。
失いたくないのです。
地位を失いたくない。
財産を失いたくない。
仕事を失いたくない。
友だちを失いたくない。
家族を失いたくない。
健康を失いたくない。
今の幸せを失いたくない。
この穏やかな生活を失いたくない。
神は困難や試練を通して、豊かな恵みが与えられていることを、思い出させてくださる。
そして困難を乗り越えた先に、今にまさる豊かな恵みを与えてくださる。
その神の愛の中に置かれていることをわきまえて、神に信頼して歩みなさい。
今の困難や苦難は、いっときのことだ。
こう、聖書は語っています。
「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」(10:32)
と対比されるのは、
「人々の前でわたしを知らないと言う」(10:33)です。
「わたしには関わりがない、一緒にしないでくれ」、という言葉です。
「知らないと言う」は、別の場面でも出て来ます。
「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(26:34)
最後の晩餐の席で、ペトロに向かって主イエスが言われた言葉です。
ペトロは言います。
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)
ペトロは、かたく決心していたのです。
しかし、「あなたも・・・一緒にいた」と言われた時に、
「そんな人は知らない」(26:74)
と言って、逃げ出してしまうのです。
これが、わたしたちの姿です。
しかし、そのペトロが復活の主に出会った時に、変えられました。
「わたしは知らない」と言って逃げたことを責められると思ったのに、
「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)
と祝福してくださった。
復活の主の愛に触れて、ペトロは強くなるのです。
何ものをも恐れず、人々の前で、
「あのナザレのイエスこそ、メシアである。そのメシアを、あなたがたは十字架につけて殺してしまった。」
と大演説をするほどに変えられるのです。
わたしたちの弱さは、ある意味で仕方がないことです。
しかし、復活の主に出会うとき、わたしたちは赦された喜びの中で、人の目を恐れることがなくなるのです。
自分の力で頑張って、人の目など恐れないと力んでみても、腰砕けになります。
でも、復活の主に出会うとき、
「人の目を恐れず、ただ神だけを畏れ敬いながら歩む」
ことができるのです。
恐れを取り去ってくださる神の愛の中を、喜びにあふれて歩みたいと願うのです。
(2019年1月6日)