何を見たのか

マタイ福音書11章1~15

 

「来るべき方は、あなたでしょうか。」(11:3)

これは、「救い主は、あなたですか」という問いです。
捕らえられていたヨハネが、弟子を送って尋ねさせたのです。

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「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」(11:4)

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・・」(11:5)
これは、イザヤ書35章の引用です。
イザヤが預言した通りのことが、あなたの目の前で起こっただろう、というのです。

「何を見に行ったのか。」(11:7、8、9)

と、3回繰り返されています。
ヘブライ語の「見る」という言葉には、「理解する」「見出す」という意味があります。
あなたがたはバプテスマのヨハネに会って、何を見出したのか。
この言葉は、あなたはわたしの言葉を聞き、わたしの業を見て、何を感じ取ったのか、という問いにつながります。

これは、信仰の本質をついています。

主イエスの言葉がわたしをどう変えたか、それが問題なのです。

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バプテスマのヨハネは、神の審きを語り、神の怒りから免れるために悔い改めのバプテスマを授けました。
一方、主イエスは、悪霊につかれた人や重い皮膚病の人を癒し、罪人とされた徴税人に神の赦しを宣言しました。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9:13)

律法を守ることができない人、神から見放されたと嘆く人を、神の愛で包んだのです。
神の赦しを感謝して受け止め、主の招きに応えるだけでいいのです。

「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」(11:13)

律法に縛られ、預言者が神の怒りと審きを告げる時代は終わった。
新しい救いの時が始まっている。
そのことを、あなたがたは自分の目で見たはずだ。
そのことを感謝し、新しい歩みを始めなさい、と言われるのです。
(2019年1月20日)

 
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